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■紀州梅のおこり
紀州藩主、徳川頼宣(1602〜1671年)の頃、紀伊国田辺藩(田辺から南部)の農民は、
あまり米が育たない田畑に苦しんでいました。これを見た田辺藩主、安藤帯刀は、以前
からあった生命力のある梅「やぶ梅」に注目し、米の出来ないやせ地や山の斜面に植え
させ、農作物の育成に努めました。いつしか田辺から南部周辺に「やぶ梅」の栽培が広
がっていきました。
■紀伊田辺印の梅干
「やぶ梅」は、果肉が薄く小粒でしたが、農民の生活に大切な品でした。やがて「やぶ
梅」は紀州梅干として「紀伊田辺産」の焼き印を押した樽に詰め江戸へと送られ、とて
も有名になりました。
■紀州梅の広がり 明治37年、日露戦争の始まりと共に軍隊の常備食として梅干の需要が急速に伸び、それ
により梅畑が広がり、梅作りをする人々、梅蔵の数も増えていきました。花の咲く頃は
甘酸っぱい梅の香りで辺りの空気を包み込み野山一面に広がっていました。今日、日本
一の梅の里にふさわしい田辺梅林・南部梅林として見事な風景で人々を魅了しています。
■紀州南高梅の誕生
上南部村長の長男であった高田貞楠は、近所の人から購入した梅の実生苗60本を植えま
した。その中に豊産で実が大きく、美しい紅がかかる優良種が一本あるのに気がつき、
その木を母樹として大切に育てました。その後、農業経営の成功を夢見る小山貞一が高
田貞楠から穂木を譲り受け試行錯誤の結果、良品種である高田梅の栽培に成功したので
した。昭和25年、梅の優良母樹を見つけるため「梅優良母樹選定委員会」が発足し、梅
の品種37品目を5年間かけて綿密に調査しました。その結果、もっとも風土に適した最
優良品種として高田梅が選ばれることとなり、母樹選定調査研究に深く関わった南部高
等学校園芸科の努力に敬意を表し「南高梅」と命名されました。
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